昭和49年01月08日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ、夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 おかげはわが家で受けよ。ここへは信心の稽古に通うて来る所。それはどう言う事かと言うと、おかげを受けるから、信心をすると言うのではなくて、信心をするからおかげになると、言う意味だと思うですね。皆さんの場合どうなっておるでしょうか。ここへは信心の稽古に来る所。おかげはわが家で受けよと。おかげを受けるから信心をしておる。それは信心の稽古を間違えておっても、ただおかげを受けると言う事だけでも、矢張りおかげは受けます。けれどもそれは信心の稽古にはならない。
 ここには信心の稽古に来るのである。おかげはわが家で受けよ。信心の稽古をさせて頂いておるから、おかげを受けるのである。同じ様ですけれども、もう天と地ほどの違いになって来るんですよね。そこでお互いの信心は果たして、どちらを取らせて頂いておるか。それはおかげの楽しみおかげの喜びはありましょう。それではつまらない。信心の稽古をさせて頂く、信心の喜びでなからにゃいけん。氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、それなんです。
 氏子信心をしておかげを受けてくれよ。氏子おかげを受けて、信心してくれとは仰ってないです。氏子信心をしておかげを受けてくれよと。そこで信心の稽古の対象とでも申しますか。何処に焦点をおいて、お互い信心の稽古をさせて頂いたら良いか。今まで漠然としておった考え方、言うなら天地に対する所の報恩。天地の恩恵を分からせて貰う。天地の大恩を分からせてもらう。又は天地の道理を分からせて貰う。そこで天地の大恩に報いるという心も自然と起きて来る。
 天地の大恩が分かり天地の道理が分かる。そこで恩に応える生き方の中から、天地の道理に即応した、天地の道理に合った生き方が求められて来るのです。天地の大恩が分かれば分かるほど、最近言われております、お世話になりますという事が、いよいよ実感として広い深いものになって来るのです。おかげを受ける。おかげと思っておるのは、実はほんとに氷山の一角でありまして、その見えないところのおかげと言うものは、それは大変なものなんです。
 その大変なものに取り組ませてもらい、その大変なものを実感として、段々だんだん深く、広く分かって行くというのが御道の信心の、私は焦点であろうと思う。だからこそ神の大恩を知れば、子孫も続き年勝り、代勝りのおかげを受けることが出来ると、はっきりとおっしゃっておられるのです。だから天地の大恩が分かると言うこと。それを話を聞いて、だんだん分かるだけではなくて、それを実感として、神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではない。
 教主様の御詠の中に「成すといえ成しうる条件恩恵の、無くば成しえず何一つとして」と言う事が分かって来る「成すといえ成しうる条件恩恵の、無くば成しえず何一つとして。」信心をさせて頂いておると、段々成しうる条件と言うものが足ろうて来る。そこに恩恵のおかげを頂く所に神恩報謝の、いわば真を尽くし捧げる事の出来れる生活がある訳です。私は成しうる条件と言うものが足ろうてくると言う事はです。
 信心の稽古の焦点を間違えずに、信心させて貰わないと、その条件は足ろわないと思う。ただ目先目先のどうぞこの事をこの事をと、おかげを願って頂いたにしても、それだけの事。所謂恩恵の条件といういうならば恩恵。おかげを受ける受けものと言う物が、先ず出来なければならんという事である。それがですおかげを受けるから信心をしておる。では、おかげの条件が足ろうてこないです。そのおかげの条件という事を、徳と言うても良いでしょう。力と言うても良いでしょう。
 又はおかげの受けものと言うても良いでしょう。おかげを受けるから信心をしておるでは、受けものは出来ません。それは何処までも、金光大神の御徳によって、金光大神におかげをもろうて貰う様なもの、借りて貰う様なもの。信心をさせて頂くから、信心の稽古をさせて頂くから、おかげを受けると言うのは、このおかげは万便なしのおかげなんだ。それこそ言うならば、隅から隅までのおかげなんである。幸せの条件というものが、一つ一つ足ろうて来るほどしのおかげなんです。
 しかもそのおかげは、あの世にも持って行けれるおかげであり、又この世にも残しておけるおかげなのである。おかげを頂くから信心しとりますと言うおかげは、それだけなんだ。おかげを頂いたっきり。落せば、それまでなんです。そん時だけは有り難くっても、だんだんその有り難さと言うものは薄れて来るおかげなんです。そりゃ成程おかげを頂くから御参りをするのです。けれどもここへは、信心の稽古へ来る所と言う、その稽古の焦点を、ここでは日々教えて頂いておる訳でしょう。
 先生はああ言われるけれどもと、口では言わなくても、結局そういう信心しか出来とらん所に、いつまでたってもおかげの条件と言うものが足ろわないのです。私はこの教主様の御詠を頂かせてもろうてから、読みが深いというか信心の深さ広さという物を、結局教主様の御信心の素晴らしさを、改めて感じさせて貰いましたね。普通の者ならば何を一つさせて貰うに致しましても、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのであり、出来んのであると迄しか説きませんでしょう。言わんでしょう。
 けれども教主様はそこん所の、そういうおかげを受ける前には、成すといえ成しうる条件と言う事を先に仰っておられる。成しうる条件と。先日からお話致しましたように、御本部の前の御造営が出来ます時、小倉の桂先生が一心発起された。そういう大きな大願を起こされて九州中の教会に、その事を布令をまわされた。そして見事な御建築が出来た。それは惜しくもほんの僅かでご炎上に成りましたけれども、残ったのは山門ですね入口の楼門と、御手洗いの所だけが残った。それはまた現に今でも残っておる。
 そこで久留米の石橋先生が、あの楼門だけは久留米からおかげを頂きたいという願いを立てられた。当時の金で壱万円かかった。それを引き受けて帰られた所が、自分があてにして居られたのが全部崩れておった。石橋先生私は今度大分の八坂先生の所の記念祭に出た御本を読ませて頂いて、初めてそれを聞かせて貰った。丁度そういう2~3日後に、大分教会の八坂先生が御参りになった。久留米の一の弟子さんです。
 実は八坂さんこうこうじゃがと言うて話された時に、八坂先生がそんならそれは、大分で一つおかげを受けましょうと言うて帰られた。所が大分教会というても別に当があると言う訳ではない。さぁ親先生にああ言うて約束はしたものの、とにかく羽振りの良い御信者が居ったから、その羽振りの良い信者を保証人にして、銀行から借りて貰おうと言う腹で帰られた。口でこそ壱万円ですけれどね、今の金に換算すると壱億円以上になるのです。御米がまだ十円しなかった時分の事ですから一俵が。
 所がそこに丁度自分がこの人に頼もうと思う人が御参りをして来た。ところがそう言う様な大変な問題をかかえておられるもんですから、何とはなしに先生の御顔が優れなかった。この頃先生、御顔の色があまり優れないのですが、何か御心配事でもあるのじゃないでしょうかと言うておうかがいをした。実は昨日、久留米に御参りをさせて頂いて、親先生がこうこう言う事を心配して居られたから、それは大分でおかげを頂きましょうと言うて帰ったがです。
 別に当というては無いから、あんたが参って来たら話そうと思っていたけれども、あんたが保証人になって、銀行からの調達をして貰えんだろうかと言うお話があった。そん時にその方が、親先生借るとか何とか仰いませずに、それは私がおかげを頂きましょうと仰ったんですその信者が。それこそ只一言八坂先生が御結界で「おかげを頂いた」と言われたと言う事が書いてあります。そりゃあんた御迷惑かくるのとも仰らなかった。そりゃ大変のとはぁ是で私は安心したという風な事では無くて只おかげを受けたと。
 そしてあの楼門が建ったと言う事。あれは久留米からばっかりだとこう思うておった。所が実は大分の信者が一人でおかげを頂いた。けれども久留米の初代も偉かったなぁ、大分の八坂先生も偉かったなぁその信者も偉かったなぁ。私は是がですね何か知らんけれども包み隠しされる様な雰囲気が、私は嫌ですね。みんな値打ちが出るでしょうが。久留米の先生もそういう弟子を持っておられて素晴らしい。その弟子さんも又そういう素晴らしい信者を持って居って素晴らしいと言う事になるんですけれどもね。
 それは私どもは只久留米から、久留米からとばっかり聞いて居った。この本を読ませて頂いてから、それに気付かせて頂いて改めて思う事です。成しうる条件と言うものが足ろうておったからなんです。そんなら高橋さんちょっと今、一億要るけんでちょっとおかげを頂きならさらんかと言うても、条件が未だ銀行に借金負いかぶっとって出来る筈は無いでしょうもん。しかもそれはです貸しましょうの、恩着せますと言う様なものであったら、さらさら無いのだから。
 それこそ有り難うおかげが頂けれる条件と言う物が、信心も形の上にも条件が足ろうて居ったと言う事。その後のその御信者のおかげも、大変な御徳を受けられた。満州に渡られて、アヘン中毒患者が沢山居る。それを段々溶かして行くという薬を発明されて、大変、その後に又あたられたと言う事が書いてありますね。ですから私共が信心の稽古をすると言う事は、いつどんな時でもどんな場合であっても、どの様なおかげにでもむせない。どういうおかげでも頂けれる。
 その条件が足ろうて行く事のために稽古をせにゃいかんのです。そこに天地の大恩が分からにゃいけん、天地の御恩恵が分からにゃいけん。又それを具体的に言うたら、天地の道理が分かって、道理に即応する生き方を、いよいよ身につけて行かなければ出来ないという事になるのです。それにはどうでも信心をして居るから、おかげは受けるのであって、あかげを受けるから信心をしておるといった様なケチな信心では、条件は足らいません。恩恵だけは受けましょうけれども、条件は足らいません。
 私共は先ずそういう条件がたろうて行くおかげを頂くために、それが焦点での信心の稽古でなからなきゃならない。それを詳しく言うと、天地の大恩が分からなければ成らない。天地の道理が分からなければ成らない。大恩にむくいる心というものが、いつも心の中にもえて居らなければならない。いや、燃えて来るようなおかげを頂かなければ成らない。天地の道理が分からなければ成らない。そこに道理に合う生き方、生活と言うものが出来るのである。
 昨夜御祈念の当番が、幹三朗でした。幹三郎が御祈念の終わっての御話の中に、二十年間のお生かしのおかげを頂いておるところの御礼と、その二十年間の間に犯してきておる御粗末御無礼を、最近は非常に御粗末御無礼であったということが、非常に分かってきたと、こう言うておる。今寒修行から断食に入ってます。それも御詫びの印にと言うております。未だ二十位の青年が自分の過去の、御粗末御無礼に気付いたということは、大変な発見だと思うですね。
 それにも拘らず御生かしのおかげを頂いて、この様な結構な御賄いを頂いておると言う事は、勿論御礼に尽きるのだけれども、それだけでは相すまん。そのお詫びの印にどうかと言うのです。この寒修行が始まった時に、怠慢と言う事を頂いた。私は私のうちの子供では、この人が一番怠慢でない様な気がするんです。朝は三時半に私の所にちゃっと出てきてくれます。そして一緒におかげを頂いて、普通の子供達は、御祈念が終わったら、つーっと自分の部屋へ帰ってしまうんです。
 けれどもちゃっと事務所で朝の忙しい時に、あの人が一人で事務所の御用を頂いてます。そして繁雄さんの、お初穂整理の御手伝いも、彼がさせて頂いて居ります。言うならあんたは、御詫びするどころじゃ無かたいと言うごたる感じがするんですけれどもね。自分としては御詫び、二十年間の御粗末御無礼と言う物に気付いて来たと言う事が、私は発見だと思います。その御詫びに印に、それも成させて頂いて居るのでは無いだろうかと。御詫びの印に、今度も断食させもらうと言う様に精進しておるです。
 して見ると他の兄弟達こりゃ私を始め、皆さんだって同じ事ですけれども。本当に怠慢無礼と言う事を仰るが、どの位にそれが御無礼に成っておるやら分からんです。一生懸命努めておっても、毎日の親教会の日参も、彼がしてくれます。それでもそのお詫びの印に、何とか形に表現して行く修行でもさせて貰わなければおられないと言う所にです。彼の信心があると思うです。
 それで夕べその後に、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。今あなたの信心が、本当の信心の稽古がが出来ておるか、出来ていないかと言う事はです、果たしてどの位な熱情を持って、おかげを受けておる事に対する御礼の信心が出来ておるか。その御礼の心がどれだけあるか。どれだけ成してもどれだけ成しても、これですんだと思わんと言う教祖の生き方から言うとです。
 それこそ御粗末御無礼山のごとある。本当に心の底から御詫びをさせて頂いておると言うものが、何処を御詫びすればよかですか、そげん大したおかげも頂いておらんけん、別に、御礼申し上げる事も無かち言う位の事で、もしあるとするなら、貴方の信心は只御参りしとるだけで、今信心が信心に成っていないと言うて良いのです。御礼を申し上げる、その心が、御参りともなり御用ともなる。お詫びの実感というものが、御参りにもなれば、御用にもなる。
 お詫びのしるしに、人の真似の出来ん位な修行もさせてもらおうと言う様な、そういう実感がお互いの信心に、そういう答えが出ておるならば、今貴方の信心は正常な所を辿っておるんだと言う事が言えます。只御願いばせんならんけん参りよるとと言うだけでは、是はお道では是を信心とは言わない。御願い信心と言う風にしか言いません。言うならば、今日の御理解から言うと、信心をしておるからおかげを受けるという生き方では無い。おかげを受けるから信心をしておる。
 そういう信心からお互いが、そこん所がひとつ天と地がひっくり返ってこにゃいけん。そういう稽古をです、お互いがまめな時にさせて貰っとかにゃならない。まめな時と言うのは、平穏無事な時にして貰っとかにゃいけんと言うのです。それに何か困った事が起こって来た。さぁ少し雲行きが悪く成ったから、いうなら病人が出来たから御参りをするというのと全然反対です。
 まめな時にここに参って信心の稽古ををする。日頃何でも無い時に、しっかり信心の稽古をしておけよと、ここでは教えておられます。お互いがこうやって信心の稽古をさせて頂いておる。その信心の稽古の焦点と言うものがです。本当にどういう健康の上においても、経済の上においても、人間関係の上に於いてもです。おかげを頂いて、おかげの受けられる、恩恵の受けられる条件を。
 先ずは頂かせて頂かなければならない。成すといえ成しうる条件恩恵の、無くばなしえず何一つとしてと。もう何一つとして、神様のおかげを頂か無ければ、やっては行けないのだ、立ち行かんのだと言う信心の謙虚さという物は、そういう中から生れて来ると思うです。信心の稽古の焦点を間違えずにおかげを頂いて行く。何時も自分の信心がこれで良いかと確かめながら、お互い信心を進めて行かなければいけませんですね。
   どうぞ。